Qiita 記事: 1983年40年前ステージ電飾制御
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(^_^; エプソンの広告になった記事の一部です。古い写真で、ごめんなさい!(昭和58年) m(_ _)m

 

 

 

 

 


パソコンで初めて電飾制御をやった

使ったのは 8 ビットのハンドヘルドコンピュータ、エプソンの HC-20 だった。

コンサートで数百本の蛍光燈を制御して点滅させるだけの時は、CPU は使っていない。CPU を入れたのは、音響の VU メータや時計を床電飾で表現するためだった。

ハンドアセンブラで書いて、記憶装置はミニカセットテープ。テクニカルリハーサルまでにバグが抜けず、さんざん迷惑をかけた。音響さんにしてみればノイズ発生器を作っているようなものだから、そちらにも迷惑をかけている。オペレータスタッフには、カセットテープのトラブルで毎回プログラムの読み込みのたびに冷や汗をかかせた。

パターンの確認はサーマルプリンターだった。

その後 HC-40 で CP/M ベースのプログラムが組めるようになり、ソフトの開発も楽になった。なんと ROM ディスクまで搭載して、カセットテープの恐怖から解放された。

武道館初日、動いたのは本番当日の朝5時

最初は『昨晩お会いしましょう』のツアー。1981年12月17日、浜松市民会館がスタートだった。自分の 25 歳の誕生日の前日で、浜松は生まれた町でもある。

1983年の REINCARNATION ツアーは、7月6日の日本武道館が初日。HC-40 のバグが抜けず、リハーサルではすべて動かなかった。一週間、移動のあいだしか寝ていない。動いたのは本番当日の朝 5 時だった。動いたときは、さんざん泣いた。

さすがに皆さんに迷惑をかけたので、そのツアーが自分にとって最後のユーミンの仕事になった。

後になって、ファンサイトの製作者の方から聞いた話がある。93年頃の雑誌で、ユーミンさんが電飾フロアについてこうコメントしていたそうだ。

本番直前まで動かなかったのが直前でピタッと直った。その時はもう心から「ミラクル!」って叫びたかった

トラブルがあったからこそ、覚えていていただけたのだと思う。

この床電飾の、その後

この床電飾の装置は、後の仕事にそのままつながっている。沖縄・那覇の松山にあったディスコ「スクランブル」は、この装置を見て「同じものを」という話だった。そこから沖縄の現場が始まり、那覇タワーの ZAVARES まで続いていく。

電球や蛍光灯を並べて文字や絵を出すという意味では、銀座の電光ニュースとも地続きだ。あちらは受け側にコンピューターを持たず、シフトレジスタとトライアックの山だけで 2,560 回路を動かしていた。

この時代からの流れは 歌舞伎町ディスコ史と電光ニュースの時代 に通しで書いた。1978年のシンデレラの床から、電光ニュース、この HC-20 / HC-40 の床電飾、そして今の AI までが一本の線でつながっている。

おわりに

今思うと、その頃の自分は毎日がチャレンジで、とにかく新しい方法ばかり考えていた。ほとんど学生気分の抜けないこんな自分に寛大に付き合っていただいた、当時の関係スタッフに心からお礼を言いたい気持ちだ。

この文章は Qiita の記事「1983年40年前ステージ電飾制御」(2022年公開・2023年追記)から抜粋し、サイト内のつながりを補って構成したもの。ツアーの日程は ファンサイト yuming.okitsune.com と相互リンクで確認している。


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