歌舞伎町ディスコ史と電光ニュースの時代

― シンデレラの床から、シフトレジスタ2,560回路の電光ニュースまで ―
照明制御45年(DMX512/ArtNet) tkurume | 歴史編

1. はじめに ― クラブと呼ばれていた頃

「ディスコ」という言葉がなかった時代がある。私が歌舞伎町に出入りしていた頃、ああいう店はまだ「クラブ」と呼ばれていた。日本で最初に「ディスコ」を名乗ったのは、たぶん新宿の「シンデレラ」だ――というのが私の記憶だが、正確には少し違う。

日本で最初のディスコは1968年5月18日開店の赤坂ムゲンだというのが通説らしい。中心地は赤坂から新宿、六本木、そして湾岸へと移っていった。私の記憶が正しいとすれば、「ディスコの中心が新宿に移った70年代後半、その旗手がシンデレラだった」というのが正確なところだろう。もっと前からあった「ツバキハウス」が先にあって、その上にシンデレラができた、という記憶もある。

思い出してみると、一番最初の大きな現場はシンデレラよりTOMORROW USAだったかもしれない。新宿東宝会館7Fにあった大箱で、当時都内でも屈指の広さのダンスフロアを持つディスコだった(収容人数3,000人とも言われる)。個人アーカイブの記録では開店が74年頃(確定情報ではないが)、シンデレラは70年代末とあるので、記憶どおりTOMORROW USAが先だった可能性が高い。この店も含めて歌舞伎町の現場を渡り歩いていたのは確かだ。

3相正弦波発振D.C.電源回路の手書き回路図。トランジスタのみで構成
TOMORROW U.S.A.で使った調光電源回路の手書き図。トランジスタのみで組んだ3相正弦波発振D.C.電源回路――ICもマイコンも無い時代の実装。

当時の生活圏は、歌舞伎町の広場と、西口にあった工学院大学の間を行ったり来たりするだけの狭いものだった。学生でありながら現場に出ていた。シンデレラの後には、ニューヨーク・ニューヨーク、そしてゼノン(XENON、1982年3月開店、新宿東宝会館4F)と、店は変わっていった。今はもうそのビルは無い。ゴジラで有名な新宿東宝ビルのあたりだったと思う。

シンデレラには2号店もあった。場所は赤坂の繁華街で、大光電機からの案件だった。当時の赤坂といえばコルドン・ブルーをはじめとする最高級ナイトクラブが並ぶ街で、「一流の現場は赤坂・六本木」というのが私の中の相場観だった。

2. 系譜 ― 日本初のディスコの照明チームとつながっていた

後になって裏を取って驚いたことがある。私に仕事をくれていたMGSの藤本社長――藤本晴美さんという方だ――は、1969年にMGS照明設計事務所を創立し、日本初のディスコとされる赤坂ムゲンと、ビブロス(BYBLOS)の照明デザイン・演出でデビューした人だった。大阪万博の政府3号館やワコールリッカー館も手がけている。

つまり私の人脈は、日本のディスコ照明のいちばん最初のチームから、そのまま地続きだったことになる。当時はそんな系譜を意識してはいなかった。MGSは新宿でギリシャハウスやカンタベリーハウスの照明もやっていて、まだ「ディスコ」とは呼ばれていなかった時代の現場も知っている。

小さな照明会社に入って最初にやったのは、社長・工場長・私の3人だけの仕事だった。その会社が大光電機と取引していて、大光が受注したディスコ照明の専用機を作れる会社が他になかった。だから私が作ることになった。それが、後にマハラジャ系列のディスコ専用機を手がける立場につながっていく。El Condorはその初期の現場だ。

3. ビームライティングの系譜 ― マニラから来た夜

マハラジャより前、六本木にレオパードキャットという店があった。きっかけは、マルコス大統領時代のフィリピンのカジノで見たビーム照明のディスコが、当時としては斬新だったことだ。現地まで見学に行き、フィリピンのDJを日本に呼んで、日本でビームライティングショーのディスコを作った。それがレオパードキャットで、マハラジャの前身のような存在だった。

バブル最盛期の終盤には、沖縄・那覇のZAVARES(ザバレス)福岡の大型店でも、ビーム光の縦横のラインを組んだ。

マハラジャは麻布十番の本店を皮切りに日本中へチェーン展開していったが、初期の店舗から福岡まで、現場としてはほぼ全部を渡り歩いた。中でも熊本のマハラジャは、私にとって特別な現場だ。数年ぶりに家内と再会したのが、あの店だった。その後、結婚することになる。因縁めいているのは、家内が東京に出てきた日が、よりによって麻布十番の本店オープンの日だったことだ。徹夜で仕込みに入っていた私は迎えに行けず、麻布十番の向かいの喫茶店で待たせてしまった。今思えばひどい話だが、当時はそれが当たり前だと思っていた。

4. 電光ニュースの時代 ― コンピューターの無い表示器

銀座、三愛の隣のビルに、フジテレビ協賛の電光ニュースを作ったことがある。フジテレビのマークが付いていた。漢字が出る電光ニュースとしては、かなり早い時期のものだったはずだ。制作にはNECのPC-9800を使った。

三愛のビルの屋上には、プロレス中継にも映ったことがある「色が変わる頂部」もあった。昔はネオンで、後に蛍光灯の自動調光に変わっている。

もう一つ、富士通FM-8(1981年5月発表、CPUは6809×2、バブルメモリとオプションの漢字ROM――JIS第1水準2,965字を積んだ機種)で漢字を編集・送出する電光ニュースも手がけた。受け側にはコンピューターが一切無い。シフトレジスタとトライアックの山だけで文字を表示していた。1文字あたり256回路、10文字並べれば2,560回路になる。

このFM-8の電光ニュース、最初に使ったのは坂本龍一(YMO)のコンサートだった。『ザ・ベストテン』では小泉今日子さんの中継で使われたこともある。TBSの番組なのに、なぜか旧テレビ朝日の通路前で中継していて、本人たちもそれを可笑しがっていた。楽屋から通路へ出る動線に、電光ニュースを背景として置いた。

同じFM-8のシステムは京都でも使った。丸みを帯びた形で、今はもう現存しない。16×16の電球ユニットがビルをぐるっと一周する規模で、カラム数はもっと多かった。メモリボードはハンダ付けではなくワイヤラッピングで、友人に製作を頼んだが間に合わず、新幹線の車中でもラッピング作業を続けてもらったことがある。それでよく動いていたと思う。

現場は連日、朝から晩までビルの外周を這い回っての作業だった。東京から新幹線で通っては、朝一で現場に入り、日が暮れてもまだラッピングと点灯確認をやっている、そんな時代感だ。今のように現場写真をその場でAIに見せて相談する、なんてことは当然できない。頼れるのは持ってきた回路図と、友人の腕と、自分の勘だけ。

くたびれ果てて現場を出た後、四条大宮のあの店の暖簾をくぐるのが毎回の楽しみだった。餃子の王将だ。油の匂いと、鉄板の音と、カウンター越しに威勢よく飛んでくる声。電球とシフトレジスタの世界にどっぷり浸かった一日の締めに、あの餃子とラーメンが染みた。当時はどこにでもある町の中華食堂だと思って通っていたのだが、後になって調べて驚いた――あの店はどうやら1967年12月24日創業、四条大宮の1号店だったらしい。京都で一番うまい飯屋を、当時の私はちゃんと嗅ぎ分けていたことになる。

5. 電球式の宿命 ― 「田」の字問題

電球には宿命がある。点くのは速いが、消えるのが遅い。残光が残る。だから横スクロールをやると、縦の線だけが薄く尾を引く。京都の電光ニュースも、TBSの可搬型も、YMOの現場でも、みんな同じ悩みを抱えていた。

後にNECのパソコンとC言語で表示ロジックを書き直したとき、今度は縦流れを試した。すると今度は横棒が消え残る番になる。それで横棒を2列化し、基本16×16、最大16×24までの可変長文字を全部作り直した。その文字づくりは、妻と二人でマークシートに丸を塗って進めた。足りない文字は現場のオペレーターが追加で作れる仕組みも、外注でC言語に組んでもらった。今ならAIが15分でやってしまうだろう。

その電球式の電光ニュースは、十数年前に撤去した。場所は三愛ビルの隣だった。今にして思えば、もう可変長文字も、電球の電光ニュースそのものも要らない。LEDスクリーンとUE5で、あの頃には考えられなかった細かい映像が出せる時代になったからだ。技術そのものへの未練はない。

6. なぜ個人で40年やってこれたか

100Vの制御やパワーデバイスを扱えるエンジニアは、たいていコンピューターの設計をしない。インバータなどを手がける大手のエンジニアは現場に出てこないし、照明やディスコの仕事は彼らにとって「おもちゃ」でしかない。

その隙間――現場に出て、100Vも組込みも両方やる個人――に立ち続けてきたのが、私の40年だった。大光電機の時代も、電光ニュースの時代も、そして今のAIの時代も、立っている場所は変わっていない気がする。

7. むすび ― 48年の一本線

シンデレラの床(1978年)から、電光ニュースのシフトレジスタ2,560回路、ユーミンのツアーで組んだHC-20/HC-40の床電飾、そして今のAI実験室まで。振り返れば48年、一本の線でつながっている。

ESP32-S3はWiFiとBluetooth付きで2〜3ドルになった。だからSW8を作った。一人ではコードは書けないが、AIが書いてくれる。ハードができた時がスタートで、そこからどれだけ成長できるかが勝負になる。AIの提案を翌日には現場に持って行ける個人――40年前と同じ隙間に、今も自分だけが立っている気がしている。

8. 年表(外部記録との突き合わせ)

記憶だけで書くと年代が前後することがあるので、個人アーカイブ「Disco Time Machine」の店舗一覧表と突き合わせた。「?」は原資料の時点で開店年が確定していないもの。

年代店名場所備考
1968〜1987年赤坂MUGEN(ムゲン)赤坂3-8-17 シーザーズパレスB1,B2日本初のディスコ。生演奏(ウルフマン・ジャック等出演)。私が現場に出る前の時代、通説の起点
70年代前半tomorrow新宿歌舞伎町29-3 東京スタッセ4Fスタッセグループ、中箱。Tomorrow U.S.A.の前身にあたる小箱
'74年(?)〜★ Tomorrow U.S.A.新宿東宝会館7Fキャパ3,000人とも言われる大箱。私が初めて収めた大きな店(調光電源回路図は本文1章)
70年代★ シンデレラ(赤坂)赤坂2-14本文の2号店。大光電機案件、赤坂の最高級クラブ街の一角
1978.7.22(映画)サタデー・ナイト・フィーバー 日本公開シンデレラの床の点滅パターンは、この映画の試写に合わせて作った(→同時期にオープン)
70年代末★ Cinderella(新宿)東亜会館5F映画『サタデー・ナイト・フィーバー』そのままの雰囲気、と原資料に明記。私が光る床を作った店(本文1章・番外編)
80年頃〜★ カンタベリーハウス シンデレラ館東亜会館5Fシンデレラの後継。私が離れた後の代替わり
80年代初頭★ エル・コンドル六本木プラザ4Fサーファー系。ビーム球マトリックス制御で一番高くついた失敗をした店(第1回参照)
80年代前半★ XENON(ゼノン)新宿東宝会館4FJOYPACK DISCO GROUP、現「CODE」。シンデレラ→ニューヨーク・ニューヨークと渡り歩いた先(本文1章)
年不明★ 電光ニュース制作(フジテレビ協賛)銀座・三愛横のビルNEC PC-9800で制作(本文4章)
1981年頃★ 電光ニュース制作(FM-8システム)YMO(坂本龍一)コンサート/TBSベストテン/京都四条大宮富士通FM-8の時代、シフトレジスタ2,560回路(本文4章)
1981.12.17〜★ HC-20使用開始松任谷由実「昨晩お会いしましょう」ツアー(浜松市民会館初日)パソコン初の電飾制御。ハンドアセンブラ・ミニカセット保存、パターン確認はサーマルプリンター(番外編参照)
'83年頃★ MAHARAJA(熊本)熊本私的に特別な現場(本文3章参照)
1983.7.6★ HC-40使用松任谷由実 REINCARNATIONツアー(日本武道館初日)CP/M+ROMディスク。リハでバグ全滅→一週間ほぼ不眠→本番当日朝5時に動いた(番外編参照)
'84.12.7〜'97.9.3★ MAHARAJA(本店)麻布十番1-3-9マハラジャ第7号店。本店オープン日=家内が上京した日

★ = 自分で調光器を現場に収めた店。Tomorrow U.S.A.以降はすべて該当する。この表で分かったこと: Tomorrow U.S.A.(74年?〜)はシンデレラ(70年代末)より早い可能性が高い。また「映画と同じ雰囲気だった」というシンデレラの記憶は、原資料にも同じ表現で残っていた。